「リアル」でしか伝わらないこと

10月1日、長かった緊急事態宣言が解除されました。

台風の強風にあおられながら、アークヒルズを抜けて霊南坂へ。久しぶりのコンサートです。Web中継のオプションもあったものの、教会の音は、やはり生でないと。若干名の会場枠に出かけていったのでした。

天井の高い教会は、音の響きが格別です。荘厳な空気、薄明りの空間に響くパイプオルガンとトランペット。じんわりと身体に伝わる響きは、その場にリアルに存在する者だけが感じられる、不思議な感覚です。どんなにテクノロジーが進んでも、この「リアル感」の再現だけは、やはり難しいのではないかと思います。

コロナ生活、大変なことが続く中、新たな生活様式の可能性もたくさん見えてきました。その気になって工夫すれば、多くの仕事がテレワークでできること。キャンプやビーチを楽しみながら仕事することも可能であること。案外簡単に、空間(場所)を超えて、多くの人と友達になれること。ダブルワーク、トリプルワークが結構楽しいこと。何か新しいことを始めようと思った時、欲しい情報はネットを介してそこここにあり、「やる気」だけが問題であること。テクノロジーと共にあるこんな世界の中で、「リアル」であることは何なのか、改めて考えさせられました。

演奏者の方が、中世の教会のお話をされていました。「科学(医学)が発達する以前の時代、教会は、人々が病気を治しにくる場だった」と。日本のお寺もそうでした。近代医学でないと救えない病気もたくさんありますが、ある種の病気は、教会やお寺が治療の場所となっており、おそらく今でも、その役目は果たされているのかも知れません。

音があり、声があり、響きがある。絵や彫刻品や建物にアートがある。光がある。その「リアル」な空間にたたずむこと、そこで話をすること、話を聞いてもらうことで、人は何かを癒しているのかもしれません。礼拝堂いっぱいに降り注ぐ音色を浴びながら、いろいろなことがバーチャルでできる時代だからこその、「リアル」の価値を感じています。ここでしか得られないものがあるのです。きっと。

人が昔から拠り所にしていた「藝術の力」を、リアルステージで改めて感じることができた夜でした。本日は、柿田京子がお届けしました。

「白」で塗ることの意味

皆さまは、「消しゴム」という道具をなににお使いでしょうか?
鉛筆で描いたものを消す道具でしょう、という答えももちろん正解。しかし、鉛筆や木炭で描かれるデッサンの場面では、もうひとつの使い方があります。それは、「光」を描くという使い方です。

様々な色彩が折り重なる水彩画や油彩画とちがって、鉛筆や木炭でおこなわれるデッサンでは、鉛筆や木炭の素材色である「黒色」と、描かれる「紙の色」しか使えません。ここでは、便宜上、紙は「白色」だと仮定します。そこに鉛筆や木炭の調子を淡くつけたり、グラデーションをつけたりして、無限の白と黒の段階をつくり表現していくのです。

そこで、消しゴムや練りゴムの役割はなにになるかというと、炭の粒子を除去することになるわけです。当たり前ですが、なにも描いてないところに消しゴムは掛けませんよね。つまり、「白色」に戻す作業は冒頭で述べた、「光」を描く作業になるわけです。

さて、ちょっと話題を変えます。

印刷においても、「白色」はとても特殊な色です。
勘の良い方なら、もうお気づきかも知れません。私は先ほど、「紙の色」を便宜上「白色」だと仮定しました。そう、「紙の色」は本当は「真っ白」ではないんです。それぞれの紙が特有の色を持っています。色紙はもちろんのこと、限りなく白に近い色でも、真っ白ではないのです。

皆さまがお持ちの、家庭用インクジェットプリンターに「白色」インクはありませんよね?
そして、「紙の色」も「白色」ではない。こんな時に、「白色」インクはとても重要なんです。

ここまで、なにを申し上げたかったかというと、一見なにも施されていないと思われるような場所にも、「意味」があるということなんです。

「描くこと」に意味があるように、「消すこと」にも意味はある。
「なにもない」ということにも、「なにも置かない」という意志がある。
「白色」にするにも、ここは「白色」インクを使ってください、というデザイナーの意図があるんだ、ということです。

身近なお菓子の透明なビニールパッケージデザインをよく見てみてください。「白色」インクが見つかるはずです。今週のエッセイは下邨尚也がお送りいたしました。

或る展覧会のためのエスキース

或る展覧会のためのエスキース

お盆が終わって、会社から自宅に帰る時分の夕風に、少し涼しさを感じる様になってきました。

早いもので、会社を立ち上げてからもう8ヶ月。有り難いことに様々なご縁に恵まれ、非常に多くの方々とお話しする機会を、日々頂きながら、仕事をしております。
皆様に励まされ、アイデアを頂戴し、強い共感を貰っては、時に窘められる。この居心地の良さはなんなのだろう? と考えたときに、気づいたのです。この積層されていくコミュニケーションは、作品制作に似ていると。

初めてお会いする方を注意深い視線で観察して、その方を知り。
お話をする限りでは知り得ないお人柄は、美術解剖学のようにその内的世界を想像し。
次の会話のトピックはどんなものがご一緒に楽しい時間を過ごせるかとエスキースを思い浮かべ。
精一杯のおもてなしで、支持体に顔料を重ね。これは失礼しました、と白く塗りつぶす。

その度毎に出会う方と、最高に素敵な出会いの瞬間という展示に向けて、試行し対峙し続ける様は、恍惚以外の何者でもないのです。

やはり私は、制作が、そしてなにより人が好きです。

今週のエッセイは、下邨がお送りいたしました。

お盆に想う

夕焼雲(撮影:柿田京子)

お盆です。帰省して、故郷で家族・親戚一同で集い、ご先祖様の精霊をお迎えするこの時期。コロナ感染が全国に拡がり、帰省もままならぬ状況ですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか? 都会での忙しい日々、お盆であることすら忘れてしまいがちな方もいらっしゃるかもしれません。きょうは、柿田京子が自身の子供時代にさかのぼり、お盆の思い出を語りたいと思います。

紀伊半島三重県。伊勢神宮をもう少し南へ下り、伊勢志摩の「志摩」と呼ばれるエリアに、私の父の故郷はありました。リアス式海岸の入り組んだ奥の入江。海苔や牡蠣の養殖が行われ、背後には、ミカン畑が広がるなだらかな山が迫り、山海両方の幸に恵まれた、温暖で風光明媚な、ひっそりとした田舎です。

家々の間に田畑があり、当時はまだ開墾用に牛がいて、休耕地で草を食み、ウモォ~と、のどかな鳴き声をあげていました。カブトムシ、クワガタ、セミ、そしてホタル。子供たちの気になる生き物はふんだんにおり、時々、畑の作物目当てで、イノシシ、サル、シカなども現れました。

このような田舎で過ごすお盆は、小学生の私にはまさに非日常。迎え火を焚き、盆提灯をつけ、きれいに飾られた仏壇に手を合わせ、年長の従兄たちから「この世から旅立ったご先祖さまの精霊が、お盆にはここに帰ってくる」という物語を粛々と聞き、みんなでその世界観に浸りました。

お会いしたことのない「ひいおじい様やひいおばあ様が、すぐそこで見ている」などと言われて、ものすごく緊張して、怖くて夜の廊下を歩けなくなったり。「ご先祖様は、子孫には決して悪さはしない」と言われて、ほっとしたり。

この村でも、戦時中にはほとんどの成人男性が駆り出され、南方で玉砕したそうです。高齢者と女性・子供だけでその後を乗り切ったこと、子供だけ取り残された家も多くあったことを聞き、やむなく旅立つしかなかった人々も、ここに戻ってきて、今一緒にいるのかと、想いを馳せたり。

人間の想像力は果てしなく、夕焼けが夜の闇に代わりつつある空を背景に、オレンジ色に灯された送り火を見ながら、精霊たちがあの世へ帰っていく姿を、私は自身の心の中に焼き付けたのです。

人は、記憶の世界に生きているのかも知れません。あるいは、記憶に根付いた想像や幻想の世界に生きているのかも知れません。この世から人の命がなくなっても、その人を大切に想う人の記憶の中で、「存在」は生き続けます。そして、その存在は姿がないまま、まだ生きている人々を癒し、勇気づけ、明日へのエネルギー源となっていたりするのです。そのような大人たちをたくさん見ながら、私は大人になりました。いつしか、かつての大人たちがいなくなり、それでもその存在は、私の記憶の中で消えず、衰えず、時折全く思いがけないひらめきやエネルギーなって、今の私を支えてくれたりします。

とうの昔に、牛はいなくなり、耕作はすべて機械に。田舎でも核家族化が進み、親戚一同が集まる機会はほとんどなくなりました。ホタルも珍しくなりました。今でも、迎え火は焚かれているのでしょうか? 時代とともに移りゆく伝統としきたり。庶民が何気なく受け継ぎ、生活の中で伝え続けてきた身近なヘリテージを、形は変わっても、その想いは、未来へつなぎ続けたいと思います。

each toneの1stプロジェクト「víz PRiZMA」(https://www.viz-prizma.com)には、幼かった私を育んだ、日本の風土が流れ込んでいます。

想いをこめることの意味

お久しぶりです。高橋です。
each toneに勤務し始めて3ヶ月経ちました。

each toneはアーティストと創る新しい偲びの形として、「víz PRiZMA」という会員制のブランドを立ち上げました。
「víz PRiZMA」の入会者は、最初に藝術ワークショップにご参加いただき、1日かけて想いを込めた作品をつくります。
ワークショップの目的は、限りある生に目を向け、生きている大切さを実感し、今後の人生をより良く生きることにあります。

作品に想いを込めるとは、何を指しているのでしょうか。想いをこめた作品を作ったとして、その先に何があるのでしょうか。
わたしの考えを述べてみようと思います。

まず、想いをこめるというのは、誰かのために行動したとき際立って実感されるものではないでしょうか。
例えば、プレゼントを贈るとき、相手が欲しいものは何か考えます。あるアイテムがピンときたら、それはどんなタイミングで使ってもらえるだろうとか、相手が好む色は、と思案を巡らせます。
もしかしたらもう持っているかも、要らないものだったらどうしよう、でもアタリなら喜んでくれるんじゃないかという期待と不安のせめぎあいを「これだ!」と感じた時の自分自身のひらめきを頼りに他の候補を捨て、決断します。
想いのこもったプレゼントとは納得いくまで様々に悩みぬいて決めたものの事だと思います。

作品作りもそれに似ています。
画面の右上にもっと深い色の絵の具が欲しい、もっと強くエネルギッシュに見せたいときはどうしたらいいだろう。何度も絵の具の混ぜ具合や置き方を試します。
思わぬところにはみ出てしまった! そんなときは他を加筆してなんとか良いハーモニーにならないかを探ります。
やりすぎて失敗した時は、最初からやり直すのも大切です。
作品の要素のひとつひとつに、その時何を考えていたかという記憶が伴います。
どうせこんなものだろうという気持ちをぐっとこらえて試行錯誤を重ねて、自分だけがわかる「ここで完成した、もう十分。」という所まで持っていけた時に、想いはこめられたと言えるのではないでしょうか。
このような体験は、自分は何が好きでどのような傾向があって、どういうイマジネーションを持っているのかを確かめることできます。

想いをこめた作品を作り、人生をより良く生きるにはどうすればよいかと考える。とても大きなテーマです。
しかし、私たちは毎日、様々なことに悩んだ上で、複数ある選択肢の中から、ひとつを選ぶことを繰り返しています。例えば、コーヒーはアイスにするかホットにするか。ボッーっとテレビを見ている時に、どのチャンネルを見るか。
ただ、そのことを考える暇もないほど忙しいのです。
だからこそ人生という時間のなかの、ある一日を作品と共に記憶にとどめておいて、その日を結節点にして人生をより良くしたいと念じる。
そして、自分を知ることによって自分らしい活力ある生き方を希望できる。
作品に想いをこめることの意味はそこにあるのではないでしょうか。