アーティストが思うNFTの未来

今年に入ってから、NFTアートの高額落札のニュースがいくつかあり、NFTアートの知名度が一段と高まりました。
NFTアートとはデジタルアートにブロックチェーン技術を組み合わせたもののことで、その特徴は、「唯一性を証明できる」「改ざんできない」「データの作成者又は、所有者を記録できる」なのだそうです。

簡単にコピーできてしまうデジタルアートに唯一性を担保して、NFTのマーケットプレイスで所有権を売買できるというものです。
色々なサイトがその仕組みを解説しているのですが、私はデジタルアートの世界のことをほとんど知りません。そこで実際に世界最大規模のNFTマーケットプレイスOpenSeaにて作品を閲覧してみることにしました。

トップランキングを見ると、ピクセルアートやGIF、ゲームのキャラクター、文字列のみのものや、ジェネレーティブアートという、いくつかのパーツをソフトウェアのアルゴリズムで組み合わせて生成した作品など、デジタルアートの特性を強く訴えるコンセプトが人気のようでした。

これら以外のコンセプトでも多数出品されていますので、検索して「これいいな」という作品を閲覧しているだけでどんどん時がたってしまいます。
こういった作品群を鑑賞して、わたしも出品に挑戦しようかと思い始めています。

膨大な作品数のデジタルアートにNFTが活用されれば市場はより拡大していくことでしょう。
その一方でセキュリティ管理や、なりすましによる出品という問題には注意していく必要がありますが、今後発展していくであろう、新しいものを身をもって体験することは、後にふりかえって得難い経験になるのではないかと思いました。

NFTアートの今後を考えたときに、たとえば従来の絵画作品のようにキャンバスに描いた油絵が個人か美術館等に収蔵されていたとしても、著名な作家でないかぎり、アーティストが没するなどして活動を終えた後に、作品が人の目に触れる時期は限られています。回顧展が企画されたり、二次流通で高値落札されて話題になるというのは、ほとんど夢のようなもの。
アート作品は、それが制作された時代の空気が含まれます。そうなると必然的に生モノのような鮮度というか、人に見てもらえる期限があるのではないでしょうか。
NFTはバブル的に盛り上がっている分野ではありますが、アート作品の流通インフラとして確かなものとして整備普及が進めば、これまでのアート業界で培われてきたように作品の信用を形作り、作品の耐久年数を高めることでしょう。後世に残せる仕組みとして貢献してほしいと思います。

今週の担当は、高橋でした。

「リアル」でしか伝わらないこと

10月1日、長かった緊急事態宣言が解除されました。

台風の強風にあおられながら、アークヒルズを抜けて霊南坂へ。久しぶりのコンサートです。Web中継のオプションもあったものの、教会の音は、やはり生でないと。若干名の会場枠に出かけていったのでした。

天井の高い教会は、音の響きが格別です。荘厳な空気、薄明りの空間に響くパイプオルガンとトランペット。じんわりと身体に伝わる響きは、その場にリアルに存在する者だけが感じられる、不思議な感覚です。どんなにテクノロジーが進んでも、この「リアル感」の再現だけは、やはり難しいのではないかと思います。

コロナ生活、大変なことが続く中、新たな生活様式の可能性もたくさん見えてきました。その気になって工夫すれば、多くの仕事がテレワークでできること。キャンプやビーチを楽しみながら仕事することも可能であること。案外簡単に、空間(場所)を超えて、多くの人と友達になれること。ダブルワーク、トリプルワークが結構楽しいこと。何か新しいことを始めようと思った時、欲しい情報はネットを介してそこここにあり、「やる気」だけが問題であること。テクノロジーと共にあるこんな世界の中で、「リアル」であることは何なのか、改めて考えさせられました。

演奏者の方が、中世の教会のお話をされていました。「科学(医学)が発達する以前の時代、教会は、人々が病気を治しにくる場だった」と。日本のお寺もそうでした。近代医学でないと救えない病気もたくさんありますが、ある種の病気は、教会やお寺が治療の場所となっており、おそらく今でも、その役目は果たされているのかも知れません。

音があり、声があり、響きがある。絵や彫刻品や建物にアートがある。光がある。その「リアル」な空間にたたずむこと、そこで話をすること、話を聞いてもらうことで、人は何かを癒しているのかもしれません。礼拝堂いっぱいに降り注ぐ音色を浴びながら、いろいろなことがバーチャルでできる時代だからこその、「リアル」の価値を感じています。ここでしか得られないものがあるのです。きっと。

人が昔から拠り所にしていた「藝術の力」を、リアルステージで改めて感じることができた夜でした。本日は、柿田京子がお届けしました。

「白」で塗ることの意味

皆さまは、「消しゴム」という道具をなににお使いでしょうか?
鉛筆で描いたものを消す道具でしょう、という答えももちろん正解。しかし、鉛筆や木炭で描かれるデッサンの場面では、もうひとつの使い方があります。それは、「光」を描くという使い方です。

様々な色彩が折り重なる水彩画や油彩画とちがって、鉛筆や木炭でおこなわれるデッサンでは、鉛筆や木炭の素材色である「黒色」と、描かれる「紙の色」しか使えません。ここでは、便宜上、紙は「白色」だと仮定します。そこに鉛筆や木炭の調子を淡くつけたり、グラデーションをつけたりして、無限の白と黒の段階をつくり表現していくのです。

そこで、消しゴムや練りゴムの役割はなにになるかというと、炭の粒子を除去することになるわけです。当たり前ですが、なにも描いてないところに消しゴムは掛けませんよね。つまり、「白色」に戻す作業は冒頭で述べた、「光」を描く作業になるわけです。

さて、ちょっと話題を変えます。

印刷においても、「白色」はとても特殊な色です。
勘の良い方なら、もうお気づきかも知れません。私は先ほど、「紙の色」を便宜上「白色」だと仮定しました。そう、「紙の色」は本当は「真っ白」ではないんです。それぞれの紙が特有の色を持っています。色紙はもちろんのこと、限りなく白に近い色でも、真っ白ではないのです。

皆さまがお持ちの、家庭用インクジェットプリンターに「白色」インクはありませんよね?
そして、「紙の色」も「白色」ではない。こんな時に、「白色」インクはとても重要なんです。

ここまで、なにを申し上げたかったかというと、一見なにも施されていないと思われるような場所にも、「意味」があるということなんです。

「描くこと」に意味があるように、「消すこと」にも意味はある。
「なにもない」ということにも、「なにも置かない」という意志がある。
「白色」にするにも、ここは「白色」インクを使ってください、というデザイナーの意図があるんだ、ということです。

身近なお菓子の透明なビニールパッケージデザインをよく見てみてください。「白色」インクが見つかるはずです。今週のエッセイは下邨尚也がお送りいたしました。

或る展覧会のためのエスキース

或る展覧会のためのエスキース

お盆が終わって、会社から自宅に帰る時分の夕風に、少し涼しさを感じる様になってきました。

早いもので、会社を立ち上げてからもう8ヶ月。有り難いことに様々なご縁に恵まれ、非常に多くの方々とお話しする機会を、日々頂きながら、仕事をしております。
皆様に励まされ、アイデアを頂戴し、強い共感を貰っては、時に窘められる。この居心地の良さはなんなのだろう? と考えたときに、気づいたのです。この積層されていくコミュニケーションは、作品制作に似ていると。

初めてお会いする方を注意深い視線で観察して、その方を知り。
お話をする限りでは知り得ないお人柄は、美術解剖学のようにその内的世界を想像し。
次の会話のトピックはどんなものがご一緒に楽しい時間を過ごせるかとエスキースを思い浮かべ。
精一杯のおもてなしで、支持体に顔料を重ね。これは失礼しました、と白く塗りつぶす。

その度毎に出会う方と、最高に素敵な出会いの瞬間という展示に向けて、試行し対峙し続ける様は、恍惚以外の何者でもないのです。

やはり私は、制作が、そしてなにより人が好きです。

今週のエッセイは、下邨がお送りいたしました。

お盆に想う

夕焼雲(撮影:柿田京子)

お盆です。帰省して、故郷で家族・親戚一同で集い、ご先祖様の精霊をお迎えするこの時期。コロナ感染が全国に拡がり、帰省もままならぬ状況ですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか? 都会での忙しい日々、お盆であることすら忘れてしまいがちな方もいらっしゃるかもしれません。きょうは、柿田京子が自身の子供時代にさかのぼり、お盆の思い出を語りたいと思います。

紀伊半島三重県。伊勢神宮をもう少し南へ下り、伊勢志摩の「志摩」と呼ばれるエリアに、私の父の故郷はありました。リアス式海岸の入り組んだ奥の入江。海苔や牡蠣の養殖が行われ、背後には、ミカン畑が広がるなだらかな山が迫り、山海両方の幸に恵まれた、温暖で風光明媚な、ひっそりとした田舎です。

家々の間に田畑があり、当時はまだ開墾用に牛がいて、休耕地で草を食み、ウモォ~と、のどかな鳴き声をあげていました。カブトムシ、クワガタ、セミ、そしてホタル。子供たちの気になる生き物はふんだんにおり、時々、畑の作物目当てで、イノシシ、サル、シカなども現れました。

このような田舎で過ごすお盆は、小学生の私にはまさに非日常。迎え火を焚き、盆提灯をつけ、きれいに飾られた仏壇に手を合わせ、年長の従兄たちから「この世から旅立ったご先祖さまの精霊が、お盆にはここに帰ってくる」という物語を粛々と聞き、みんなでその世界観に浸りました。

お会いしたことのない「ひいおじい様やひいおばあ様が、すぐそこで見ている」などと言われて、ものすごく緊張して、怖くて夜の廊下を歩けなくなったり。「ご先祖様は、子孫には決して悪さはしない」と言われて、ほっとしたり。

この村でも、戦時中にはほとんどの成人男性が駆り出され、南方で玉砕したそうです。高齢者と女性・子供だけでその後を乗り切ったこと、子供だけ取り残された家も多くあったことを聞き、やむなく旅立つしかなかった人々も、ここに戻ってきて、今一緒にいるのかと、想いを馳せたり。

人間の想像力は果てしなく、夕焼けが夜の闇に代わりつつある空を背景に、オレンジ色に灯された送り火を見ながら、精霊たちがあの世へ帰っていく姿を、私は自身の心の中に焼き付けたのです。

人は、記憶の世界に生きているのかも知れません。あるいは、記憶に根付いた想像や幻想の世界に生きているのかも知れません。この世から人の命がなくなっても、その人を大切に想う人の記憶の中で、「存在」は生き続けます。そして、その存在は姿がないまま、まだ生きている人々を癒し、勇気づけ、明日へのエネルギー源となっていたりするのです。そのような大人たちをたくさん見ながら、私は大人になりました。いつしか、かつての大人たちがいなくなり、それでもその存在は、私の記憶の中で消えず、衰えず、時折全く思いがけないひらめきやエネルギーなって、今の私を支えてくれたりします。

とうの昔に、牛はいなくなり、耕作はすべて機械に。田舎でも核家族化が進み、親戚一同が集まる機会はほとんどなくなりました。ホタルも珍しくなりました。今でも、迎え火は焚かれているのでしょうか? 時代とともに移りゆく伝統としきたり。庶民が何気なく受け継ぎ、生活の中で伝え続けてきた身近なヘリテージを、形は変わっても、その想いは、未来へつなぎ続けたいと思います。

each toneの1stプロジェクト「víz PRiZMA」(https://www.viz-prizma.com)には、幼かった私を育んだ、日本の風土が流れ込んでいます。

想いをこめることの意味

お久しぶりです。高橋です。
each toneに勤務し始めて3ヶ月経ちました。

each toneはアーティストと創る新しい偲びの形として、「víz PRiZMA」という会員制のブランドを立ち上げました。
「víz PRiZMA」の入会者は、最初に藝術ワークショップにご参加いただき、1日かけて想いを込めた作品をつくります。
ワークショップの目的は、限りある生に目を向け、生きている大切さを実感し、今後の人生をより良く生きることにあります。

作品に想いを込めるとは、何を指しているのでしょうか。想いをこめた作品を作ったとして、その先に何があるのでしょうか。
わたしの考えを述べてみようと思います。

まず、想いをこめるというのは、誰かのために行動したとき際立って実感されるものではないでしょうか。
例えば、プレゼントを贈るとき、相手が欲しいものは何か考えます。あるアイテムがピンときたら、それはどんなタイミングで使ってもらえるだろうとか、相手が好む色は、と思案を巡らせます。
もしかしたらもう持っているかも、要らないものだったらどうしよう、でもアタリなら喜んでくれるんじゃないかという期待と不安のせめぎあいを「これだ!」と感じた時の自分自身のひらめきを頼りに他の候補を捨て、決断します。
想いのこもったプレゼントとは納得いくまで様々に悩みぬいて決めたものの事だと思います。

作品作りもそれに似ています。
画面の右上にもっと深い色の絵の具が欲しい、もっと強くエネルギッシュに見せたいときはどうしたらいいだろう。何度も絵の具の混ぜ具合や置き方を試します。
思わぬところにはみ出てしまった! そんなときは他を加筆してなんとか良いハーモニーにならないかを探ります。
やりすぎて失敗した時は、最初からやり直すのも大切です。
作品の要素のひとつひとつに、その時何を考えていたかという記憶が伴います。
どうせこんなものだろうという気持ちをぐっとこらえて試行錯誤を重ねて、自分だけがわかる「ここで完成した、もう十分。」という所まで持っていけた時に、想いはこめられたと言えるのではないでしょうか。
このような体験は、自分は何が好きでどのような傾向があって、どういうイマジネーションを持っているのかを確かめることできます。

想いをこめた作品を作り、人生をより良く生きるにはどうすればよいかと考える。とても大きなテーマです。
しかし、私たちは毎日、様々なことに悩んだ上で、複数ある選択肢の中から、ひとつを選ぶことを繰り返しています。例えば、コーヒーはアイスにするかホットにするか。ボッーっとテレビを見ている時に、どのチャンネルを見るか。
ただ、そのことを考える暇もないほど忙しいのです。
だからこそ人生という時間のなかの、ある一日を作品と共に記憶にとどめておいて、その日を結節点にして人生をより良くしたいと念じる。
そして、自分を知ることによって自分らしい活力ある生き方を希望できる。
作品に想いをこめることの意味はそこにあるのではないでしょうか。

藝術という選択 ― Heart of “each tone”

人がある状況にでくわした時、藝術という選択があることで、普段できないこと、考えなかったことが可能になるのではないか。その積み重ねが社会を変革していくのではないか。

先週のエッセイを、弊社の髙橋若余は、こう締めくくりました。
これを受けて本日は、柿田京子が、改めてこのテーマの一例を語ってみたいと思います。

「人がある状況にでくわした時」-それは往々にして、都合が悪い状況であったり、危機的な状況であったりします。

その状況にどっぷり浸って、不幸な世界観を堪能し尽くすのも、ひとつの選択でしょう。悲劇をつぶさに観察しながら主人公を演じる自身が、「もっと悲劇性を高めるにはどう表現すればよいか」などと考えはじめたら、チャンス! あなた自身が気づくでしょう。自分がもう不幸な人ではなく、悲劇を題材に人生の深みを謳歌できる前向きな人間に変わっていることを。

お笑いや喜劇では、主人公の思い通りにならないアクシデントや、常識どおり進まないもどかしい事象を「笑いのネタ」としていることが多いですね。都合の悪い状況に対して、日和ったり、怒ったりする自身の様子を、人間ドラマとしてとらえる。客観視しながら、共感したり、別の人だったらどうするかと想像したり、あるいは関西弁で状況再現したらどうなるだろうと考えたりし始めたら、チャンス! あなたはもう、悩める現状をネタに、笑いと幸せを送り出す愉快な人に変わっています。

このように考えると、危機的だった状況が人生を謳歌する糧であり、都合が悪い状況が幸せな笑いを誘うきっかけであったりするわけで、もうどこからが不幸で、どこからが幸せだかよくわからない二律背反。不幸なのか幸福なのか、まさに「塞翁が馬」。相対するはずの感情が混在・混線してつながる中、最後には「生きていることは本当に素晴らしい」「みなさんありがとうございます」という愛おしい感謝につながっていく、不思議な世界が拓けてきます。

藝術という選択があること。それは、売れる作品をつくることや、高名なアーティストとして認知されるというような意味ではなく、やわらかい思考とやさしい眼差しをもって、人が自身の無意識から、本来持っている様々な発想や能力を引き出し、苦しみや違和感を和らげたり、改めて明日に向き合うエネルギーを生み出したりする活動です。

思えば、20世紀には、「損か得か」「善か悪か」といった、固定的なベクトルで課題に向き合うことが多かったように思います。この結果、取り残されてしまった課題—環境問題や、人の尊厳の問題など—が、今、SDGs*として並んでいます。21世紀という時代が、二律背反を交えた複雑な課題に寄り添う時代となっていることが見えるでしょう。

私たちは、どのようにして、ここから未来を創っていくのでしょうか?

これから社会で活躍する若きアーティストの方々の将来が希望に満ちたものであることを願い、今に悩むすべての方々が、その状況の中から、明日に向き合うきっかけを見出していけることを切に願いながら、本日の筆をおきたいと思います。
私たちeach toneが、どうかその一助になれますように。

*SDGs:2015年9月の国連サミットで採択された、2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す国際目標。17のゴール・169のターゲットから構成され,地球上の「誰一人取り残さない(leave no one behind)」ことを誓っている。(外務省ホームページより

生活の中で見えた藝術の力

みなさま初めまして、髙橋です。東京藝術大学DOORプロジェクトからの繋がりで、4月よりeach toneにソーシャルアーティストとして勤務しています。

弊社が掲げる企業理念『〜藝術の力を社会へ〜』とはどういうことなのでしょうか。私からのごあいさつも兼ねて、今回はこのテーマについて考えてみたいと思います。

私は昨年の春から一年間、都内のサービス付き高齢者向け住宅でアーティスト・イン・レジデンス*に参加しました。この企画では、アーティストとして高齢者向け住宅に入居しますが、食堂で一緒に食事したり、おしゃべりしたり、ひとりの住人として日々過ごします。

滞在先では、多くの方と出会いましたが、そのなかでも特に思い出深い方がいらっしゃいました。その方は知的障害があって、今思い返しますと、ほんのささいな事なのですが、シチュエーションにあわせて言動を調節することが不得手でした。経験乏しい私はそのことで動揺し、その方に対して今後どう対応していけばよいのか悩んでしまったのです。

そこで私がどうしたか。その人の行動をつぶさに見てみよう。人となりについて、詳しくなってみようという気持ちで接することに決めました。一方的に、自分のことをめいっぱいお話しされるのですが、負けずにこちらからもたくさん質問を投げました。

目的意識をもって向き合うと、行動の因果関係がだんだん見えてきて、この人は、本当に楽しかったことを一生懸命私に伝えようとしている。楽しい事が人生の中心にあるのだと知ることができました。そして、自分の話題に夢中になってしまうという特性はあるものの、会話中はイライラしたり、怒ったりというのが無く、安定していることもわかりました。
最初は戸惑いを覚えていたのに、会話を終えるころにはある種の接しやすさを感じていることに気がついたのです。

私がしたことは、ただの時間をかけたおしゃべりでした。客観的にみれば当たり前のことに気づいただけと思われるでしょう。

しかし、このようにも考えます。レジデンスに参加していなかったら、障害を持つその人と関わりを持てただろうか? 自分なりに理解したいと望み、そこで得たことを周りに伝えようとしただろうか? 
アーティストという第三者的立場で居合わせたからこそ、自分にとって難しいと思うことに向き合おうとしたのだと思います。

人がある状況にでくわした時、藝術という選択があることで、普段できないこと、考えなかったことが可能になるのではないか。その積み重ねが社会を変革していくのではないか。そんなふうに社会の中の藝術を捉えています。

*アーティストが一定期間ある土地に滞在し、常時とは異なる文化環境で作品制作やリサーチ活動を行うこと。(https://bijutsutecho.com/artwiki/17 より引用)

メディアの探求

先日、大学時代の友人夫婦が弊社に遊びに来てくれました。同じ専攻だったこともあり、思い出深かった講義『メディア環境論』の話題になったのですが、なかなか興味深いトピックであり、弊社の1stプロジェクトとも関連が深いので、今週の投稿は、下邨が「メディアとはなにか?」について採りあげます。

みなさまは「メディア」と聞いて、なにを思い浮かべるでしょうか?
新聞・雑誌・テレビ・ラジオなど、マスメディアという単語はよく耳にするかもしれません。

メディア(media)
《medium の複数形》

1. 媒体。手段。特に、新聞・雑誌・テレビ・ラジオなどの媒体。「マスメディア」「マルチメディア」
2. 記憶媒体

デジタル大辞泉/小学館 より引用

上記の引用のように、「メディア」の元々の意味は「媒体」なのです。

古くは、「石版」に刻まれた文字。洞窟の壁に描かれた「壁画」。植物性の文字の筆記媒体である「パピルス」。コンピュータの出現により、デジタルデータの特性として、「マルチメディア」という言葉がもてはやされた時代もありました。文字・音・映像などを同じ記憶媒体で記録できることが、表現の手法を大きく変えたことは記憶に新しいです。

では、アートの分野ではどうでしょう。
こと絵画作品においては、支持体と顔料がメディアだと言えるでしょう。「支持体」とは紙やキャンバスなど、絵が描かれるもの。その上に顔料などの「絵具」がのって、絵画作品として表現されるわけです。

絵画作品も、時代と共に大きくその表現方法が変容していきます。「カメラ」の発明により、絵画でしか表現できない世界を模索していった15世紀以降の作家達は、二次元という平面の絵画作品の世界を、どう拡張して表現していくかを試行錯誤し、「遠近法」や「陰影法」という奥行きを感じさせる技法。眼の仕組みを科学的な観点から再現した「点描」。多角的な目線をひとつの平面に表現した「キュビズム」。絵に動きの概念を取り入れた「未来派」。具体的なモチーフではなく、意識や無意識などの人間の心理の内面に着目した「シュールレアリスム」等々。挙げだしたらキリがありません。

弊社each toneの1stプロジェクトは、「いのち」「祈り」「時間」といったかたちのないメディアに挑戦いたします。どうぞ、ご期待ください。