今週の投稿は、下邨の曖昧な信念の続編にお付きあいください。
引き続き、ボンヤリとしたトピックです、気楽にお読みください。
私の大学での専攻は「コミュニケーション・デザイン」ですが、美術やノンバーバル(非言語)コミュニケーションに興味を持つ以前、思春期の頃は文学にハマっておりました。なかでもいわゆる純文学、明治・大正・昭和初期の小説や詩集を読みあさっていました。
国語や作文の成績はからっきしでしたが、実体験として、文章の「凄み」のようなものに興奮し、震えていました。今になって思えば、倒置法や逆説、擬人化や比喩など、そんな専門用語こそ知らずとも、「嗚呼、かういふ樣に使ふと、なんと效果的であらうか。」と悦に入っていたものです。
たった一行の文章で、こめかみを撃ち抜かれたような感覚を抱いたのもその頃です。言葉の持つ「強さ」「儚さ」「博愛」「残忍性」にも強く惹かれました。表現の道を選ぶことになった原体験なのかもしれません。
今でも言語化して考えるクセは抜けず、大学の油絵の授業で抽象画を初めて描いたときのことです。人によって抽象化のプロセスは様々でしょうが、私はその時のモチーフであった観葉植物に関連するワードを50個くらい挙げて、その中から数個選びだし、そこからイメージを膨らませていきました。例えば「細胞壁」「ミトコンドリア」「光合成」のように。「とても面白いアプローチだね!」と講師の方に言われて、他の学生はどうやっているのかな? と気になったりもしました。
ところで、「表現」において、通底する真理があると勝手に思っています。それは「なにもないところの重要性」なのではないかと、現時点で私は感じています。
文章では、書かないことで読ませる行間。
書道では、墨と半紙のバランス。
デザインでも、余白。
音楽では、楽譜の休符。
ここをしっかりと設計し、全体として調和がとれ、響き合っている作品がステキだなと、強く実感します。ここへの試行錯誤は永遠ですね。
今週も駄文、失礼いたしました。