目で触る 指で見る

こんにちは、下邨です。
本日は私の文章にお付きあいください。

唐突に始まります。

五感という感覚があります。これにはそれぞれ優位性があるそうです。
一般的な場合、その方が置かれる状況確認のために入手される情報は、

  • 視覚 87%
  • 聴覚 7%
  • 触覚 3%
  • 嗅覚 2%
  • 味覚 1%

なのだそうです。

もちろん、ひとにより差異はあって、目が不自由な方は触覚による点字など。地図という観念を「パンを焼く匂いがするから、ここを右に曲がろう」と嗅覚で捉えておられる方もいらっしゃると聞いたことがあります。

また、脳への「記憶」という観点からは、
聴覚<視覚<触覚<味覚<嗅覚
という順序で強く印象づけられるという話もあります。
情報確保の優位性とは異なる結果なのが、非常に興味深いです。

さて、美術においてはどうでしょう。
私は美術作品を「目で触る」ように鑑賞することにしています。文字通り、作品の表面質感や堅さ・柔らかさ、温度感などを、まるで指で触るように視覚で辿っていきます。ギャラリーや美術館の匂いもとても気になります。描かれたばかりの油絵であれば、その画材の香りから独特の感覚を想起されます。

余談になりますが、私は展示されている彫刻の「裏側」が気になって仕方がありません。スポットライトを浴びていて、作品タイトルや説明文が書かれている、いわゆる正面の裏です。可能ならば、必ずみるようにしています。

当然のことながら美術作品によっては、触ることができないものも多いのですし、舌でペロッと舐めてみたり、彫刻を裏返してみる、なんて言語道断ですが…。
いつもと少し違う感覚も使って、作品鑑賞をしてみてはいかがでしょうか?
それまでは理解できなかった作品も、少しだけ作家の深層心理に近づけるかも知れません。

「過去」を考えることで浮かび上がってくるもの

こんにちは髙橋若余です。

過去をふりかえり、現在を見つめ、未来を展望する。
これが今取り組んでいる「víz PRiZMA」のワークショップの核です。

本日はこの3つの要素のなかでもとりわけ過去について、自らにあてはめて考えたことを書いてみます。
わたしにとって「過去をふりかえる」はとても困難です。

過去をふりかえるといっても、どうしても直近の数年間のちょっと苦々しい記憶が鮮明に蘇ってきます。なぜなら、よほど楽しいことでないかぎり、嫌なことやつまらないことの方を繰り返し反芻してしまうからです。
わたしは、本当に嫌なできごとは、現在の楽しみの総量を増やし、押し流すことで忘れるようにしてきました。
そもそも重要でないと頭の中で判断したことは、まるで穴が開いたように記憶からこぼれていて、高校時代の担任やクラスメートの名前すら曖昧です。
そして、過去をふりかえろうとすると、無為に過ごした時間、その時の無気力な感情に苛まれそうで…すこし恐ろしいのです。
そこでもっと過去に戻って、ちいさな子どものころはどうだったかと思い返すと、絵が好きだった祖母のこと、昔住んでいた家から見えた景色、夕焼けを見てこのピンクと紫の混じったような色が好きだと感じたことなど、ノスタルジックな記憶が思い起こされます。そうすると、なんとなく穏やかで暖かな気持ちになってきました。

過去には良い記憶もあれば、忘れたい記憶もあります。わたしの過去には、「これを成し遂げたから、今の自分を誇れるのだ。」と語って聞かせられるような、満足いく素晴らしい功績も残っていません。
しかしいくつかの記憶をこのように重層的にふりかえることで、では「今の自分はどうだろう?」と、対比としての現在が浮かび上がってきます。
今の自分自身とかつての自分を比べれば、たとえそれが亀の歩みであっても進歩していると捉えることができます。それは心の中で過去と現在を行ったり来たりしているうちに、変化や成長を求める気持ちが自分のなかにあることを自覚できたからです。

過去をふりかえることで、未来に対して前向きな気持ちを持てていることに気づきました。
わたしにとって将来はまだはっきりと像を持ちません。しかし最後には幸せになるための道のりを歩んでいるのだと信じて、この日々を送っていきたいと考えています。

「間合い」の藝術

先週末から今週にかけて、劇団東俳の公演に出演してきました。シェイクスピアの喜劇「真夏の夜の夢」。出演者は3歳から60代までさまざまな世代が入り乱れ、力を合わせてひとつのお芝居を創ります。このたび初舞台を踏ませていただいた柿田京子、本日は、舞台での気づきをつぶやいてみたいと思います。

劇団東俳 ファミリー劇場「真夏の夜の夢」

ひとことで言えば、演劇の舞台は、壮大な“間合いの藝術”です。「間合い」とは、距離や時間の適度な頃合い。空間の中でしっくりとハマる立ち位置、動き。台詞の掛け合いの中で、しっくりくる速度、緩急。剣術や音楽、舞踊の世界でもよく使われる言葉です。

ドラマや映画などの映像は、1分程度の瞬間演技を繰り返しながら撮り溜め、編集して仕上げます。間違えれば、何度でも撮り直すことができます。これに比べて、リアルの舞台は一発勝負。一度始まると幕が下りるまで、たとえ何が起ころうと、走り続けて完成させなければなりません。

今回は30名を超える役者、音響、映像、照明、その他多くのスタッフとの協働プロジェクト。全12公演にダブルキャストで臨みました。皆、できる限り“予定どおり”を目指すのですが、人間が完全に同じことを繰り返すのは難しく、かなりの頻度で“予定外”が発生します。台詞が飛んだ、違う台詞を言った、声が上ずった、立ち位置が違った、床に小道具が落ちた、足元がフラついた、照明のまぶしさに思わず目を細めた、お客さまの声援に反応して視線を動かしたなどなど。この、数えきれないほどの「おっと」「ヒヤリハット」を併せ持ちながら、ひたすらフィナーレへ向けて、全員で走り続けるのです。

舞台に上がれば私語はできません。言葉でのコミュニケーションが絶たれた世界で、皆でひたすら「間合い」を見極め、何か起こるその場を瞬時に上手くまとめながら、最高の調和を目指します。ベテランの役者は、この間合いのハンドリングに見事に長けています。

日頃のレッスン時でも、間合いを意識するトレーニングがありました。殺陣の時間。向き合った相手が押してくるのか、引こうとしているのか、その思惑を推し量らいながら、自分の出方を瞬時に決めていきます。本物の剣術、真剣勝負の世界では、察することができなければ斬られてしまいます。役者の世界でも、呼吸が合わなければ怪我につながりかねません。

心を落ち着かせ、クラス全員でひたすらスタジオのエアコンの音に集中、間合いを感じつつ、順番を決めずに数をカウントしていくというレッスンもありました。「ここで自分が言えるな」という瞬間を、さっと見極めて、調和を乱さず行動に移す。この訓練は、私が体験した最高のチームワークトレーニングでもありました。

心を合わせつつも、出るべき場では、自分のエネルギーを全力で爆裂させる瞬間も必要。場合によっては、仲間をサポートして引っ張ることも必要。持ちつ持たれず、理想をめざしていく。舞台には、そっくりそのまま、現実世界へあてはめることのできる大きな学びと気づきがあったのでした。

「この世は舞台、人はみな役者だ」―シェイクスピア

アーティストが思うNFTの未来

今年に入ってから、NFTアートの高額落札のニュースがいくつかあり、NFTアートの知名度が一段と高まりました。
NFTアートとはデジタルアートにブロックチェーン技術を組み合わせたもののことで、その特徴は、「唯一性を証明できる」「改ざんできない」「データの作成者又は、所有者を記録できる」なのだそうです。

簡単にコピーできてしまうデジタルアートに唯一性を担保して、NFTのマーケットプレイスで所有権を売買できるというものです。
色々なサイトがその仕組みを解説しているのですが、私はデジタルアートの世界のことをほとんど知りません。そこで実際に世界最大規模のNFTマーケットプレイスOpenSeaにて作品を閲覧してみることにしました。

トップランキングを見ると、ピクセルアートやGIF、ゲームのキャラクター、文字列のみのものや、ジェネレーティブアートという、いくつかのパーツをソフトウェアのアルゴリズムで組み合わせて生成した作品など、デジタルアートの特性を強く訴えるコンセプトが人気のようでした。

これら以外のコンセプトでも多数出品されていますので、検索して「これいいな」という作品を閲覧しているだけでどんどん時がたってしまいます。
こういった作品群を鑑賞して、わたしも出品に挑戦しようかと思い始めています。

膨大な作品数のデジタルアートにNFTが活用されれば市場はより拡大していくことでしょう。
その一方でセキュリティ管理や、なりすましによる出品という問題には注意していく必要がありますが、今後発展していくであろう、新しいものを身をもって体験することは、後にふりかえって得難い経験になるのではないかと思いました。

NFTアートの今後を考えたときに、たとえば従来の絵画作品のようにキャンバスに描いた油絵が個人か美術館等に収蔵されていたとしても、著名な作家でないかぎり、アーティストが没するなどして活動を終えた後に、作品が人の目に触れる時期は限られています。回顧展が企画されたり、二次流通で高値落札されて話題になるというのは、ほとんど夢のようなもの。
アート作品は、それが制作された時代の空気が含まれます。そうなると必然的に生モノのような鮮度というか、人に見てもらえる期限があるのではないでしょうか。
NFTはバブル的に盛り上がっている分野ではありますが、アート作品の流通インフラとして確かなものとして整備普及が進めば、これまでのアート業界で培われてきたように作品の信用を形作り、作品の耐久年数を高めることでしょう。後世に残せる仕組みとして貢献してほしいと思います。

今週の担当は、高橋でした。

「リアル」でしか伝わらないこと

10月1日、長かった緊急事態宣言が解除されました。

台風の強風にあおられながら、アークヒルズを抜けて霊南坂へ。久しぶりのコンサートです。Web中継のオプションもあったものの、教会の音は、やはり生でないと。若干名の会場枠に出かけていったのでした。

天井の高い教会は、音の響きが格別です。荘厳な空気、薄明りの空間に響くパイプオルガンとトランペット。じんわりと身体に伝わる響きは、その場にリアルに存在する者だけが感じられる、不思議な感覚です。どんなにテクノロジーが進んでも、この「リアル感」の再現だけは、やはり難しいのではないかと思います。

コロナ生活、大変なことが続く中、新たな生活様式の可能性もたくさん見えてきました。その気になって工夫すれば、多くの仕事がテレワークでできること。キャンプやビーチを楽しみながら仕事することも可能であること。案外簡単に、空間(場所)を超えて、多くの人と友達になれること。ダブルワーク、トリプルワークが結構楽しいこと。何か新しいことを始めようと思った時、欲しい情報はネットを介してそこここにあり、「やる気」だけが問題であること。テクノロジーと共にあるこんな世界の中で、「リアル」であることは何なのか、改めて考えさせられました。

演奏者の方が、中世の教会のお話をされていました。「科学(医学)が発達する以前の時代、教会は、人々が病気を治しにくる場だった」と。日本のお寺もそうでした。近代医学でないと救えない病気もたくさんありますが、ある種の病気は、教会やお寺が治療の場所となっており、おそらく今でも、その役目は果たされているのかも知れません。

音があり、声があり、響きがある。絵や彫刻品や建物にアートがある。光がある。その「リアル」な空間にたたずむこと、そこで話をすること、話を聞いてもらうことで、人は何かを癒しているのかもしれません。礼拝堂いっぱいに降り注ぐ音色を浴びながら、いろいろなことがバーチャルでできる時代だからこその、「リアル」の価値を感じています。ここでしか得られないものがあるのです。きっと。

人が昔から拠り所にしていた「藝術の力」を、リアルステージで改めて感じることができた夜でした。本日は、柿田京子がお届けしました。

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