Artists Interview #2

「存在」を尊重し、「人」として人生を楽しむ
〜受け身でない「豊かさ」を求めて〜

中畝 治子(なかうね はるこ)さん
NPO法人レスパイト・ケアサービス萌 代表理事

Profile

東京藝術大学日本画専攻卒業  同大学院保存修復技術修了。東寺両界曼荼羅、松島瑞巌寺障壁画復元模写事業等に参加。重症心身障害児の長男を頭に三人の子育てと仕事を、大学の同級生だった夫と協力して行う。17歳で長男を亡くしてから、小学校図工科講師を勤めアートの楽しさを再認識する。その後、保育系大学、短期大学で教鞭をとる。現在NPO法人レスパイト・ケアサービス萌の代表理事として活動。

描くこと、欠くこと、覚悟と

船木:絵画・日本画の世界に入ったきっかけは、どのようなものだったのですか?

中畝:絵を描くことは、もともと得意で。職業として、学生時代に得意だった美術でやっていけたらと思い、藝大を選びました。とはいえ、自分の中から何か湧き出てくるタイプではなく、模写することが好きでした。

高校時代に学生運動がピークで、藝大に入学したタイミングでもその余韻が残っていました。特に日本画の分野において、藝術は一般社会に開かれたものではなく、“芸術至上主義”が強かったように思います。藝術家の友人の中には、家の中に洗濯物が干してあることさえ嫌がる人もいました。資本主義社会の中で、特に日本において藝術は“特別で高尚であるべき”とされがちでしたが、私はもっと、藝術が社会や生活の中へ溶け込んでいいと思ったのです。

船木:常雄さんとは、大学の同級生だったのですね。

中畝:美術予備校時代の同級生だった夫とは、大学院2年生の時に学生結婚しました。私は東京在住でしたが自宅を出たいという思いがあり、当時それには「結婚」という選択肢しか浮かびませんでした。時代的に、「女性が仕事を持つことが当たり前」となる少し前のタイミングでした。大卒だったのに専業主婦をしていた母がもがく姿を、長い間目の当たりにしてきたので、「私は自分の仕事を持ちたい」という思いを持っていました。

私が築きたかったのは「主人と家内」ではなく、“対等なパートナーシップ”の関係です。サルトルと内縁関係にあったボーヴォワールの『第二の性』に、

“女は女に生まれるのではなく、女になるのだ”

とあります。夫は、本書に感銘を受けた! と興奮して私が話すのを真剣に聞いてくれたし、「俺についてこい!」というタイプでもなかった。「この人となら一緒にやっていける」と思ったのです。

諦めなければいけないこと、諦めてはいけないこと

中畝:藝術家同士の夫婦だと一緒に制作することを避けたり、夫婦のどちらか、往々にして女性が、支える立場になったりすることがありました。画壇は未だに男尊女卑の世界ですし。しかし、私たちはそうはなりませんでした。学生時代はアトリエで並んで絵を描いていましたし。学生時代の講評会ではお互いの作品を批判しながら高めていこうとしていたのですが、それよりも、それぞれが得意なところを褒め合いながらやる方が“楽しくていい”、と。

船木:絵筆を持てない時期があったのですよね。

中畝:重症心身障害児である長男・祥太の誕生は一つの大きな転機となりました。その障がいのため、「諦めなければいけないこと」が出てきました。絵描きとして生きる道は、祥太を育てながらでは難しい。祥太の場合、24時間365日誰かが一緒にいる必要があり、特に負担を感じることも多くありました。私が自分自身のためにしていることは「食べること」だけでした。この先一体、どうなるのだろう? 様々な葛藤がありました。絵を描くことも何もできない、ほぼ介助に明け暮れる日々が続きました。

大学院時代の先輩が私たち夫婦2人に紹介してくださった障壁画復元模写の仕事で、交代で介護しながらでも、再び筆を手に取ることができた時、本当に幸せでした。私は模写さえできれば、自分の絵は描けなくてもいい。そう思っていました。夫は絵を描きたがっていたので、私は我慢して彼に描かせてあげよう、と。それでもいざ、沼津のギャラリーで彼だけが初めて個展を開いた時。やはり、羨ましくなったのです。1999年、夫から大倉山のギャラリーで、「一緒に二人展をやらないか?」と提案され、再び自分の絵も描けるようになったのです。

「できない豊かさ」を教え、教わる

船木:その後、学校という場で教師として、藝術活動を再開されたのですよね。

中畝:長男の祥太が17歳で亡くなって1年後、本格的に働き始めたのは50歳になってからです。小学校の図工教師をすることになったのですが、それが本当に楽しくて! もし卒業してすぐ教師になっていたら、子供たちが「上手にできるよう」指導することを目指していたと思います。しかし、私は文字通り「何もできない人」を育てた後に、教師になりました。「人はなにかを為すために生きているのではない」。美術技法を教える訳ではなかったので「できない豊かさ」があっていいのではないか。そう、強く実感したのです。

学生時代、「藝術活動は眉間にしわを寄せておこなう小難しいもの」という思い込みがありました。長い間絵を描くことが叶わず、ようやく子供たちと一緒に描くことができるようになり、気付いたことがあります。それは、「表現することは、楽しい」ということ。筆を持つことがなかなか叶わなかった中、小学校で子供たちと楽しく絵を描くことを再開し、自身の気持ちの解放と共に、改めて藝術に対する捉え方も変わりました。「あぁ、私はこういった形でアートと関わりたい」と。

図工教師をしていると、うまく形にしたり気持ちを表に表現したりすることが苦手な子供たち、いわゆる「困った子」の姿が特に目にとまります。
「あなたのこと、ちゃんと見ているわよ」。そういったメッセージを丁寧に出し続けることで、その子たちにも伝わることがわかります。「全て“上手に”できなくてもいいよ」。「安心して大丈夫だよ」、と。子供たちとの時間を重ねることで、私自身、祥太を亡くしてポッカリできた空洞を埋めてもらっていたのだと思います。

船木:祥太君がいてくれたからこその、出会いや気付きだったのかもしれませんね。「いるだけでいい」、と。

中畝:そう思います。祥太は、「こうあるべき」という概念が全てひっくり返ることを、身をもって証明してくれましたから。本当に、ただ「いるだけ」でいい。

子供たちと関わるようになってから、絵だけではなく工作もやり始めて、それもまたとにかく楽しくて! 美術教育の中では、どうしても「藝術は楽しいものではなく高尚なもの」とされる傾向がありますが、楽しくていいと思うのです。
本当は社会を変えなければいけないのでしょうが、私ができることは、「側にいる人たちを大切にする」こと。そして、その人たちの幸せを祈ること。祥太がこの世に産まれてきた時、皆幸せにならなければならない、幸せにしたいと心底思いました。

ガチガチを緩めて。けれども「存在」は尊重して

船木:これからの生き方、今後についてお聞かせください。

中畝:私は元々お笑い系なので、とにかく人々や社会をガチガチな状態から「緩めて」いきたいのです。祥太がいることで多くの方々にたくさん支えていただいたので、それを還したい。一方的な想いで還すのではなく、あくまで相手を尊重し、自分もユーモアを持って楽しみながら。そこでも対等な関係が大切だと思います。

海外では、藝術やスポーツといった文化、また仕事や子育てにおいても「参加する豊かさ」があると感じます。暮らしの中にアートがあり、自分を豊かにするものと上手に暮らしている方が多い印象です。
日本の方は、どうも全てのことに対して受身である傾向が強い気がします。もっと自分のために、「参加する豊かさ」を楽しんでいただきたいです。「上手に」何かを成し遂げるのではなく、純粋に楽しみながら。“自分を幸せにするもの”を選び、それと共に暮らす豊かさを味わっていただきたいです。

ガチガチに正面からではなく、真面目に楽しく「緩めること」で社会が変わっていく。
藝術もスポーツもそう。まず生活があって、辛さを解放し、緩めるためのもの。これからもその一役を担っていくことができたら嬉しいです。

あとは、子供と一緒になにかをしたいです。幼児教育・教育全般を考えていきたい。そこに行くと「死にたくなる」学校ってなんなのでしょう? 全ての人が「人」として人生を楽しむ。「存在」を尊重された世の中。楽しみながら。笑いながら。そんな社会を望んでいます。

インタビュー後記

インタビューの最中、常に傍にいらっしゃった常雄さん。「あれはいつだったかしら?」などと質問が投げかけられると、会話にスッと入ってくる。インタビューが長引けば、昼食にお手製素麺(フォースタイル)をサッと振る舞ってくださる。その横で、インコのピーちゃんが「基本的人権」と囁く。
その空間・空気に、中畝さんやご夫妻の今までが凝縮されているように感じました。言葉の持つ印象とは裏腹に、熱く強く、「緩めたい」と何度も口にする中畝さんの姿に影響を受け、人生を楽しむ人たちが益々増えることを願います。

pho picture

写真撮影:髙橋 若余